天山遯とは|引き際の作法──憎まずに、離れる

易経のことば ── 人生をよむ | 第三十三回

天山遯とは
引き際の作法──
憎まずに、離れる

前回の「恒」は、長く続けることを説く卦でした。その次に易経が置いたのは──長くいてはいけない時の卦です。序卦伝いわく「物は以て久しく其の所に居る可からず」退くことだけを、一卦まるごと使って説く。それが「天山遯(てんざんとん)」です。

この卦をひとことで

天山遯(てんざんとん)は、易経・六十四卦の第33卦。遯は、退き避けて隠れること。下に二つの陰が生じて勢いを増し、上の四つの陽がしだいに退いていく形で、旧暦六月にあたります。卦辞は〈遯、亨、小利貞〉。核心は──退くことは敗北ではなく、「退いて、しかる後に亨る」という点にあります。

01 ── 象(かたち)天と山は、届かない

遯の卦は、下が山(艮☶)、上が天(乾☰)。──天の下に、山がある

公田連太郎の読みが見事です。「山は高く地上に聳えているけれども、天とは遙かにかけ離れている。天はどこまでも高く、山はある高さに止まって、それより以上に進むことはできない」
──山がどれだけ高くても、天には届かない。そして天は、山と争わない。ただ、高くにある。これが遯の姿です。

卦の形は、下から陰・陰、その上に陽が四つ。下の二つの陰が勢いを増し、上の四つの陽がしだいに退いていく。易では陽を君子、陰を小人とみます。──つまり形勢が変わりつつある時の卦です。

季節でいえば旧暦六月。夏至を過ぎ、いちばん暑い盛りに、すでに二つの陰が生じている。まだ誰も秋を感じていない時期に、易はもう潮目は変わったと告げます。──引き際は、まだ暑いうちに考えるものなのです。

02 ── 卦辞(かじ)退いて、しかる後に亨る

遯。亨。小利貞。

遯(とん)は亨(とお)る。小(すこ)しく貞(ただ)しきに利(よろ)し。

出典:公田連太郎『易経講話』天山遯

まず遯亨──退くことが、亨る。彖伝はさらに踏み込みます。遯而亨也(遯れて而して亨るなり)──退いて、しかる後に亨る

ここが遯の卦の核心です。退くことは、道が閉じることではない。退くことによって、道が開く。──逃げと引き際が違うのは、この一点においてです。

次に小利貞。公田はこの解釈で、朱子と明確に袂を分かちます。朱子は「小人の勢いがだんだん盛んになる意味」と注しましたが、公田は「私はこの説に賛成しない」と述べ、こう読みます──「小さいことならばうまく行くが、大きいことならばうまく行かぬ。遯の時代であるから、正しき道を堅固に守り、小さいことに過ぎないのであって、大きい利益を得られるという時代ではない」

退く時期には、大きな勝負をしない。守るべき道は守る。しかし期待の規模は、小さくたたむ。──これは撤退局面における、きわめて実務的な処方です。

そして彖伝の結び。遯之時義大矣哉(遯の時義大なるかな)──退くべき時の意味は、大きい。易経が「大なるかな」と讃嘆するのは、限られた卦だけです。退くことが、それほど重い技術だということです。

03 ── 人生に置きかえると憎まずに、離れる

この卦でいちばん実用的で、いちばん難しいのが大象です。

象曰。天下有山。遯。君子以遠小人。不悪而厳。

象に曰く、天の下に山有るは、遯なり。君子以て小人を遠ざけ、悪(にく)まずして厳にす。

出典:公田連太郎『易経講話』天山遯・大象

ここでいう小人は、人格の断罪ではなく「今の自分と合わない相手・関われば害になる相手」と読むとよいでしょう。問題は、その相手とどう離れるかです。

公田の警告が鋭い。「はなはだしく悪んで、あからさまに憎み怒って、あまりに厳しく憎むときは、相手はかえって怨み怒って、こちらを害するようになる」。──強い拒絶は、相手を敵に変える

だから不悪而厳憎しみは向けない。しかし、自分の守る道は厳正に保って、静かに距離を取る。公田はここで、後漢の時代に賢人たちが権力者を正面から排除しようとして、かえって大きな禍を招いた史実を引いています。正しさは、正面衝突の免罪符にはならないのです。

──人間関係の悩みの多くは、「合わない」ことではなく「合わないと表明してしまうこと」から起きます。遯の卦は、そこに手を置きます。感情を出さずに、距離だけを変える。天が山と争わないように。

04 ── 六爻(ろっこう)出遅れる、縛られる、そして悠々と去る

遯の六爻は、めずらしくきれいな上昇構造を持っています。下から上へ、退き方がどんどん上手になっていくのです。

初六|遯尾遯尾、厲、勿用有攸往(とんの お、あやうし、もって ゆくところ ある なかれ)

悩みの場面:引き際に出遅れた/もう動くタイミングを逃した

は、いちばん後ろ。退くのに乗り遅れた爻です。だから=危うい。

ところが易の答えは意外です。勿用有攸往=行こうとするな。象伝いわく往かずんば何の災あらんや──動かなければ、何の災いがあろうか

公田はこう説きます。「初六は微賤なる位地であり、じっとしておれば、卑い身分であって、大層目立つ位置ではないので、危険を免れ得られる」。──出遅れたと気づいた時、慌てて動くのがいちばん危ない。目立たないなら、目立たないまま動かない。これも立派な処し方です。

六二|執之用黄牛之革執之用黄牛之革、莫之勝説(これを とるに こうぎゅうの かわを もちう、これを とくに まさる なし)

悩みの場面:離れずに、留まって支える/信頼をつなぎ続ける

この卦で唯一、「退かない」ことが正解の爻です。は中央の色、は柔順な動物。黄牛の革──柔らかく、しかも切れないもの。

六二は、上の九五と固く結びついています。莫之勝説その結びつきを解き離せるものはない。象伝は志を固くするなり

──皆が去っていく局面で、留まって支える人がいる。その人を繋いでいるのは、鎖ではなく柔らかくて切れない革です。強く縛るものより、柔らかいもののほうが切れない

九三|係遯係遯、有疾、厲、畜臣妾吉(かかる とん、やまい あり、あやうし、しんしょうを やしなえば きち)

悩みの場面:家族や事情に縛られて動けない/辞めたいのに辞められない

いちばん現実的で、いちばん切実な爻です。は繋がれること。退きたいのに、繋がれていて退けない。

公田の例示が、そのまま現代の話になります。「たとえば自分の家族などが困窮するであろうと憂え、恋々として去りかねるようなものである」。象伝は疾有りて憊るるなり──病があって、疲れ果てる辞められない状態が、そのものとして人を消耗させるのです。

そして易は、この爻を責めません。畜臣妾吉──身近な小さな務め(当時の言葉では臣妾=使用人を養うこと)を、遠ざけすぎず近づけすぎず適切にこなしていれば吉。ただし象伝は正直に付け加えます。大事には可ならざるなり大きな仕事には向かない時期だ
──動けない時期は、大きなことを引き受けない。目の前の務めを丁寧にやる。それでいい、と易は言っています。

九四|好遯好遯、君子吉、小人否(よけれども とる、くんしは きち、しょうじんは せず)

悩みの場面:好きなものを手放せない/未練で決断できない

好けれども、遯る。──九四には、心から好ましく思う相手(初六)がいます。それでも決然と退く

公田は「君子は、好み愛するところのものに拘束されることなく、義として隠退すべき場合であれば、さっさと隠退する」と読み、逆に退けないほうを「好み愛するところのものに繋がれて、隠退することを決行しかねる」と説明します。

──ここが遯の卦の分かれ目です。嫌なものから離れるのは、誰にでもできる。難しいのは、好きなものから離れること引き際の質は、何を捨てられるかで決まります

九五|嘉遯嘉遯、貞吉(よく とる、ていにして きち)

悩みの場面:美しく身を引きたい/志を保ったまま退く

この卦の主爻嘉(よ)く美しい。剛健中正の徳を持ち、下の六二と応じあいながら、時のよろしきに従って、美しく退く

象伝が理由を示します。志を正しくするを以てなり──志を正しく保ったまま退くから、嘉遯なのです。

──退き方が美しい人は、去った後もその志が残ります。去り際が、その人の一番長く記憶される姿になる。この爻は、そのことを言っています。

上九|肥遯肥遯、无不利(ゆたかに とる、よろしからざる なし)

悩みの場面:しがらみなく、すっきり離れたい/迷いを断ち切る

遯の卦の到達点であり、易経のなかでも屈指の、気持ちのいい爻です。を公田は「心ひろく体ゆたかに曠然として自適しておる」と解します。ゆったりと、余裕をもって退く

上九には、下に応じる爻がありません。つまり何のしがらみもない。だから无不利よろしくないことが、ひとつもない。象伝は疑ふ所无きなり──少しの迷いもない

──九三は縛られて疲れ果て、九四は好きなものを断ち切り、九五は志を保って美しく退いた。そして上九は、もう断ち切るものすら残っていない引き際の最高形は、迷いがないこと。それは強がりではなく、係累を一つずつ手放してきた結果なのです。

05 ── 攻めと守り小さく守り、大きく望まない

遯の「攻め」は、逆説的ですが退くこと自体です。遯而亨也──退いてはじめて道が開く。そして好きなものからも決然と退く(九四)、志を保ったまま退く(九五)、しがらみを残さず退く(上九)。退き方の質を上げていくことが、この卦における前進です。

「守り」は三つ。①不悪而厳──憎まずに、距離だけ取る。感情をぶつけないことが、最大の防御になります。②小利貞──期待の規模を小さくたたむ。この時期に大きな勝負をしない。③初六の「往かずんば何の災あらんや」──出遅れたら、慌てて動かない

そして九三が教える、もうひとつの守り。動けない時期には、大事を引き受けない。──退けないことを自分の弱さとして責めるのではなく、「今は大きなことをやる時期ではない」と時期の問題に置き換える。これができると、消耗が止まります。

余白のひとこと ── 古典より

立つ鳥、跡を濁さず。

──日本の古諺

水鳥が飛び立った後の水面が、澄んだままであるように──去る者は、その場をきれいにして去るという日本の教えです。遯の卦の「嘉(よ)く遯る」「憎まずして厳にす」と、そのまま重なります。去り際にこそ、その人の全部が出る。濁さずに立てるかどうかは、去る決断より難しいのかもしれません。

06 ── まとめこの卦からの一言

  1. 退くことは、敗北ではない。「遯れて而して亨る」。退くことによって道が開く。だから易は「遯の時義大なるかな」と讃えます。
  2. 憎まずに、離れる。「悪まずして厳にす」。露骨に拒絶すれば相手は敵になる。感情は向けず、距離だけを変えます。
  3. 退く時期には、大きく望まない。「小しく貞しきに利し」。守る道は守り、期待の規模はたたむ。
  4. 難しいのは、好きなものから離れること。「好けれども遯る」。引き際の質は、何を手放せるかで決まります。

天山遯は、辞め時・離れ時を考えているすべての人への卦です。易経は、退くことを一度も責めていません。むしろ、退き方には作法があり、その作法には段階がある、と丁寧に説きます。出遅れたら動かない。縛られている時は大事を引き受けない。そして手放せるものから、ひとつずつ。
次回は、この裏返し。勢いが盛んになりすぎた時をどうするか──「雷天大壮(らいてんたいそう)」を読みます。

FAQ ── よくある質問天山遯のギモン

天山遯とは、どんな意味の卦ですか?

易経・六十四卦の第33卦です。遯は退き避けて隠れること。下に二つの陰が生じて勢いを増し、上の四つの陽がしだいに退いていく形で、旧暦六月にあたります。卦辞は〈遯、亨、小利貞〉。核心は、退くこと自体が敗北ではなく「退いて、しかる後に亨る」という点にあります。

「不悪而厳」とは、どういう意味ですか?

悪(にく)まずして厳にす、と読みます。合わない相手を露骨に憎んで排除しようとすると、相手も怨んで反撃してくる。憎しみは向けず、しかし自分の守るべき道は厳正に保って距離を取る──それが遯の卦の大象の教えです。

「肥遯」とは、どんな退き方ですか?

肥(ゆた)かに遯る、と読みます。心ひろく体ゆたかに、何のしがらみもなく、少しの迷いもなく悠々と退くことです。遯の卦のいちばん上に置かれた、最も理想的な引き際とされます。

天山遯は、どんな悩みの時に響く卦ですか?

辞め時・引き際を考えている時、合わない相手との距離の取り方に困っている時、家族や事情に縛られて動けない時、未練で決断できない時などに響きます。